昭和五十四年八月十八日 朝の御理解
御理解第三十六節
「日本国中のあらゆる神を皆信心すると云うがそれは余りの信心ぢ ゃ人に物を頼むにも一人に任すと其の人が力を入れて世話をして くれるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大工を雇うて も棟梁が無ければならぬ草木でも心と云うたら一つじゃ神信心も この一心を出すと直ぐおかげが受けられる」
本当にあの人は信心深いというても、それこそ八百万の神々様は云に及ばず、あそこの仏様、ここの何何様というて そういうのをまあ、あの人は信心が篤い、信心が篤い というふうに申しますね、けども これではおかげにならん。
決して仏様、神様と人から拝まれるように、仏様 神様を軽う見てはいけない、それこそ前を通る時には一礼をするような心持ちは、いるけれども、もうこの方一心と定める、という事
おかげを頂く、というのは、ね、
うちぢゃ 庚神{こうじん}様も拝みる 大神宮様も拝みよる、というような事ではいけません。
どこの何何様、どこの何何の地蔵様と いったようにね、
如何にも沢山な神々様を拝めば それだけおかげが受けられる事あるが 決してそうではない。
その道理を説いてある、ね、一心と定めい、と、草木でも心というたら、ひとつぢゃ、ね、
家を建てるのに棟梁が何人も居ったら出けません。
人に物を頼むでも、あの人にも頼んどこ、この人にも頼んどこ、というような事になると、あの人が世話しなさるだろう、で、もう皆が そういう事になってしもうて、もう あなたにお願いするより他に手はありません。という時に始めてその人は ほんなら、と、いうならば一肌ぬごかと 云う事にもなってくるようなもんだ、と私は思います。
そこん所を ま、教祖様はおっしゃつておられるのです、ね、
そこでです、ね、もう一心は一心、もう金光様一心、だから一心に頼み一心の信心によって、おかげが受けられる、という事ですけれども、折角おかげを頂くならば、ね、やはり大きなおかげがよいし又は素晴らしいおかげが いいわけです、ね、
だから一心に頼んでおかげを頂く、と いうてもその一心に願う内容が、私は大きうなからなければ、いけない、立派でなからなければ いけない、と思うんです。ね、
もう うちは何にん拝みよらん、金光様だけだから、というだけで心の状態がおかげの受けものを作ろうともしない。
教えの、いうなら合楽理念の実験しないでは、そこに実証がうまれてまいりません、ね。もう此処では何というても、今、合楽理念の実験実証するより外はないと、もう健康管理も商売繁盛も お百姓の事も、ね、すべてがそうなんだ、と、そこから素晴らしいリズムも出てくる、生まれてくる、リズムにのっての信心生活ですから、ね、例えばすぐに自分の思うようにならなくても、その間に信心がいよいよ本当なものに成長していく。
今日こちらえ出て参ります時に目が覚めたらすぐ床の間の方に向かって、御祈念をするのですけども、夕べはおかげを頂いて一睡もせずに まあ それこそ神様とお話合いのような一晩でした。
もう昨日は合楽会でしたから、十二時すぎてました。
それからおかげを頂いて、ま、神様はいろいろと教えて下さったり話しかけて下さったりするから、それに対するご返事でも、もう、間違ちゃならんと思うから緊張 と いうわけではないけれども、そんな事が、時々あります。
もう本当に有り難いです。目覚ましがすっきりして、有り難いことも有り難いけれども、眠らんなりに もうお通夜です。
神様とお話合いをする、こげな嬉しい事はないです。
寝まして頂ながら南米布教の事やら色々こう思わせて頂いとったら神様から(楠公) と、いう事を頂いた。
楠木正茂の事を楠公、といいますね、楠というものはあれは、大変大きくなる木です、ね、正茂というのは正しく茂る と まあ頂くべきでしょうね、御理解を頂くと、それこそ楠木太り、大きなおかげを しかも正しく、ね、もうそれこそ茂るおかげとも なっていくようなおかげを頂くために いわば楠公で、ならなければならないという、楠公とは、木偏に南と書いてあります。
公 と、いうのは公という字が書いてある。
ははあ、私の心が寝ながらではあるけれども、思いが馳せておる。南の国に、いわゆる南米という事だと思います。
私が南の国の事を思うておる。ね、木は心でしょ、心が南に向いておる、それにはね、いよいよ公の心、ね、いよいよ大きな心、私的なもんじゃない、公の心、大きな心、いわゆる楠木正茂である。
いよいよ楠木太りの、只 大きくなっただけではいけない、
正しく、ね、それこそ栄えてゆくのでなければ、本当の繁昌にはつながらない、そりゃもう栄えさえすりゃ もうどげなこっでんよかと、そげなもんじゃない。正しく栄えてゆくために いよいよ、おかげを頂かねばならん。
ははあ、云うなれば 末永先生が南米布教のも大変難しい中に、宗教者、としての 宗教家として堂々と南米布教が出来る。
今、南米国ではそれを全部、閉鎖する というでしょうか、宗教を入れない、という もうどんなに考えても普通では あのう、考えられない、入国という事は、と いうような状態の中にあるわけです、だからその間にいよいよ心を南に向けるだけではなくて、
いよいよ公な心、いよいよ楠木正茂の もうそれこそ もう
楠木太りのおかげを頂く、しかも正しく、ね、栄えていくおかげを頂く為の元である、と 云う事であります。
なら、ひとつ何何様にでも頼んでみろか、と、ね、といったようなものでなくて もう兎に角神様、いうならば金光大神御一人、
親先生御一人の 任せで布教させて頂こうとしておる、一心だけれども、一心にすがる内容がです、ね、
より大きなおかげを頂く為に修行をしておけ、と こういうわけなんです。そしたら神様から 紫檀かなんかの大きな この応接台よりも ちょっと大きいぐらいな、大変重たそうなつを二人で、やっと抱えて位置を直すところを頂いた。
重たい、と いう事は 重量感という、ね、応接台、という事は、どういう事か、応える、接する台と、こう書いてある。
例えば私どもが三代金光様の事が一番実感的に、私は感じたんですけれども、それこそ多くを語られないです、ね、只 どんなお願い致しましても ハイハイ である。
それであって -威あって猛からず- 何とも云えん、そこに重量感、重みを感じる。人に応じる それに答える、人に接する時にです、私はね、もう本当に、ね、おしゃべりをせんでも、ね、
ハイハイ と云うただけで人が安心し、人が助かるような。
しかもそこに重量感のある、いうならば取次者になりたい。
私は改めてそれを思うた。ニコニコ笑うときゃええ、相手がそうですなあ、あ、そりゃこうです、と もう無口同様で です、それでいて人が助かるような力を頂きたい、おかげを頂きたい。
重みのある ははあ、応接台を二人で抱えておる。
これは末永先生だけの事ではないでしょうけれども、まあ引き続きですから それの答えと頂いてもよいでしょう。
お互いが、ね、人に応ずる時に多くを語らんでも、相手が合点してくれる、ね、もう心が向こうに通う、通じる、ね、
それこそ ハイハイで人が助かるようなおかげ、ね、結局そう云う力が内容に出せるという事なんです、ね、素晴らしいですねえ、
応接台である。人に応ずる時、ね、人に接する時、それに答えは、そうですな ぐらいで良い、ね、何か云うときには もうハイハイで、よし、多くを語る事はいらん、
心に不安があり心配があり、いろんな人間心をたくましゅうするから、多くを語らなければならないのである。
これは人に接した時、例えば大きな問題なら問題にあつた時、ね、それを 台と云う字は、無口と書いてあるでしょうが、
応接台の台は むくち と書いてある、ね、例えば なら、親先生どうでしょうか、と、黙っとけ と いうこっちゃなかですもんねそりゃ右ばい、そりゃ左ばい、だけでいい、またはハイハイだけでいい、それでいて皆さんが私を見て下さってです、ね、
いうなら重量感を感じて下さるような私にならなければならない
末永建郎にもそういう 例えば特に言葉も通じない国に行くので御座いますから多くを語らんでも、ね、
日本人の金光様の先生、語らんでも、ね、顔を見ただけで眼と眼と合うただけでも通いあうような、心と心が交ひ合う様な、それこそハイハイ で人がどんどん、それこそ、白であろうが黒であろうが助かっていく様なおかげを頂くためには重量感のある私になれ。
そのために いうならば南米布教が、ひまをかけてあるのだ、
時間がかけてあるのだ、と 一心という事に於ては なら同じ事ね何何様頼もてん何何に頼も、ち 云う事ないのです、けども一心に頼んでも頼む、頂くおかげの素晴らしいおかげを、楠木太りのおかげを頂く事の為に私共が、その間に内容を作っておけ、
この事一心に、それこそ合楽一心に おかげを頂いた。
頂き終った時にはもう こんな力を頂いておった。こんなに心が豊かになっておった、もう多くを語らんでも、もうニコニコ笑うときゃ、もうそれで人が信用してくれ、又は通じるような、ひとつおかげを頂かしてもらう、そういうおかげを願いとしての信心。
まあ 実に楽しいことだと思います
もう一辺ね、その応接台を やっとかっと二人でその位置を直しておる、というその事と、それから今日私が頂いた、楠公、
楠公は楠木正茂の事を楠公という。木偏に南、公、と書いて楠公という、この字の解釈と 楠木正茂というその字の解釈を思うてね、折角頂くなら正しく大きくならにゃ つまらんです。
悪い事してでも大きくなる、という事ぢゃ いかんです。
いうなら お徳を受けて、しかも、そのお徳が偉大な大きなお徳を頂かなければなりません、ね、
それこそブラジルだけでも 大変な広い事でしょうけども、私の願いは、ね、金光さまに、あの人が布教に出ていく時に願はして頂いた事は、ね、ブラジル布教ぢゃなかったです、南米布教ぢゃったです、もう金光様大変其の事を喜ばれた、ね、だから それこそ南米布教におかげが、いよいよ合楽理念をもつて海外布教、その内容はいよいよ楠木正茂、人物としては それこそ重量感のある、というか、それこそ重みのある、合うただけでも人が助かるような、
ニコニコしとるだけで人が助かるような ハイハイ だけで、あ、もう承知して頂いた、もう合点して頂いた、と相手が思う位な、ねハイ が云えるような信心内容が頂きたいですね、
「どうぞ」